フェミニズムはなぜ、衰退しているのか。

フェミニズムと言えば、日本では大正デモクラシーの波に乗って登場し、戦後、さらに勢力を拡大した思想である。現在では反フェミニズム的思想を公で語ることは自らが差別主義者であるとの誤解を招きかねない、危険な行為となっている。

別にそれらを根拠に、フェミニズムを批判したいわけではないし、悪く思っているわけではない。批判されない、聖域となる思想は常にどこにでもあるし、そうしたものの存在を否定することは、かえって自らの主張の根拠を貶めるからだ。と、言うのももはやフェミニズムの根本的な思想は議論の対象ではなく、常識となっているからだ。ガリレオが地動説を否定した時、天動説が常識だったように、この時代ではフェミニズムが常識となっている。

では、これからそのフェミニズムはどこへ向かって行くのだろうか。私見ではあるが、フェミニズムはその思想を「もはや常識」と思われる部分まで持ち上げた事で、その目的は果たされたように思う。フェミニズムを否定する非常識な「差別主義者」は、社会から抹殺される。こう言う環境がほとんど成立しているのだ。

しかし、フェミニズムの宣教師はそう思っていない様子だ。彼らの目的は(ここではグループを指す代名詞として「彼」と言う言葉を使ったのであって、差別的な意図はない)どうやら、さらなる権利の拡大になるらしい。これ以上何を求めるのだ、と思われるが、多く主張されるのは以下の様なものだ。

 

・議員における女性の割合の上昇(クォーター制の導入)

・女性らしさのない環境

・出産、中絶の自由

・家庭内における男性側の家事割合を増やす

 

もちろん、これらとは異なった主張をするフェミニストがいることは知っているが、多くのフェミニストの達成目標の実態はこんなもんだ。

しかしこれらの主張は女性の正当な権利の拡大と言えるのか疑問視される。

例えば、クォーター制の導入では、あらかじめ議員の性別割合をある程度確定させてから選挙を行う。あるいは、候補者の数を性別ごとで確定させたりする。

このクォーター制の弊害では、能力のある男性候補と能力のない女性候補の2人がいた場合、能力のない女性の方が選ばれやすくなる(これは女性に能力がないと言っているのではなく、個人差の次元で話している)。つまり、候補一人一人の能力ではなく、性別によって議員がある程度決定される様になるのだ。これは、民主主義の観点から考えて正当な主張であろうか?

多くのフェミニストたちは、「様々な価値観が集まるから良い事だ」とか「国会でも男女平等がなされるべきだ」などと語る。しかし、民主主義とは、国民が自らの代表を、自らの投票によって決めるものであったはずだ。制度によって、有権者が本当に支持している、されるであう人間の投票が妨げられるなら、それはもはや全体主義である。

女性らしさがない環境、も彼らの主張の多くを占めるが、私はこれに懐疑的だ。もはや女性らしさを求めることは、大きなリスクを伴うものになっている。そしてこの流れはフェミニストが何もしなくても、世代交代とともに加速するであろう。フェミニストは、人々に未来を考えるように訴えながら、実は過去と対話していると考えられる(彼らは決して認めないだろうけど)。

出産、中絶の自由という主張の大きな根拠は「産むのは女性だから」というものである。さらに言えば育てるのは「女性だから」という考え方に則っている。しかし、フェミニストの推進する考え方は、性別の壁をなくすことだったはずだ。男性も女性も、性別という垣根を無しにして生活していこうというものだったはずだ。そうした場合、出産中絶もまた、性別の垣根を超えて両性の合意でのみ決定されるべきではないだろうか?

また、家庭内における家事の割合を均等にという主張も多く見られる。彼らは続けて「日本男性の家事協力は先進国で最低ラインだぞ」と言い「スェーデンを見習え」と言う。

この一見もっともに見える主張が、あほらしく聞こえてしまうのは、女性側の問題だったりする。

実はスウェーデンでは、妻は夫と殆ど同じ程度稼ぐし、労働時間も殆ど同じだったりする(殆どという表現は個人差を表す)。つまり、家庭全体への貢献度は仕事面で見ると同じなのだ。であるから、家事面においても貢献度が同じになる。

対象に日本では3割が専業主婦であり、また正規雇用は少ない。つまり、仕事面での貢献度が小さいのだ。すると、当然妻側の家事面における貢献度が高くなるのは必然である。

で、あるからフェミニストの主張は「女性の働きやすさ」と同時に行われる。そう、段階を踏んでではなく、同時に行われるのだ。しかも、多くのフェミニストは女性の働きやすさと、家事面の貢献度を別問題と考えて提起している。

結果として、私の紹介したフェミニストの主張の多くは、男性を軽視した主張になっているのだ。不思議なことに、女性軽視の廃絶を訴えている人の大半は、男性を軽視している。

このまま、この様な主張をフェミニストが続けたらどうなるだろうか? 

実は既にフェミニストは支持を失いつつある。ここまでフェミニストの話をしたが、実はフェミニストと女性はイコールの関係ではないのだ。

フェミニストの男性軽視の要求は、逆に男性側の要求を強くさせている。例えば、専業だけど同じだけ家事をしろと、男性側を軽視した主張をすると、女性側に「お前も稼げ」と言われる様になってきているのだ(日本の専業主婦の7割強が、男性側の家事負担を要求していると言うデータもある)。

過去のフェミニストは、公的な権利における男女平等を訴えるだけだったため、女性側に失うものがなく、支持を得やすかった(選挙権獲得など)。しかし、今のフェミニストの主張は、実は女性側にも負担を要求する、「私的」男女平等へとメスを入れているのだ。そのため、私的なところでの男女の住み分けを望む女性たちの支持を確実に減らしている(女性は大切にされるべき、レディファーストなどといった女性有利な価値観も攻撃対象になるからだ)。

結局のところ、フェミニズムはもう、その役目を終えたのだ。そして、今後は衰退の一途をたどっていく。フェミニズムはもはや、歴史の1ページとなったのだ。

 

おまけ

女性専用車は、女性が安心して電車に乗るためらしいが、白人が安心して電車に乗るために白人専用車を作ったらどうなるんだろうね。

あるいは白人客を増やしたいから、白人だけに商品を安く提供したらどうなるんだろうね。

当然、アパルトヘイトになるよね。

今のフェミニストが支持を失うのは、実は急進的フェミニストのこう言った活動によるところが大きいのかもしれない。

 

 

 

 

 

24分で終わって欲しかったやつ

 ところで昨日、今日とどこかの局で24時間テレビなるものが流された。

 確か、私が見たときには盲目の先生を取り上げたドラマが流されていた。

 あくまで個人的な感想を言うなら、主人公役の役者が残念すぎて冷めたし、脚本で冷めたし、沢尻エリカが「別に」と言わなかったので冷めた。

 これを見ながら私は「これ24分で終わってくんないかな」なんて言ったりもした。

 

 で、どうやら例年通りこの番組に対する批判が出てるらしい。

 中には虐待、ポルノなど過激な言葉が並んだりもする。

 個人的感想を述べるなら、私はそもそも障害者と一般に呼ばれる方々と、(人間的な)私の間に差があるようには感じてない。要するに、障害者が云々というのを見ても、「え、あ、そう」としか思えないのだ。

 そもそも私と彼らは(平等であるかは知らないが)対等であって、彼らが彼らの思うように努力することと、私がそうすることになんら差はないのである。私がこの番組から感じる感動は、受験生が勉強をしてるって言うのと同じ程度の感動しか呼ばない。彼らは彼らの選択として努力をしてるわけで、そこに受験勉強か、障害か、ということに貴賎はないのである。

 私達、いわゆる健常者と呼ばれる属性と、障害者と呼ばれる属性があくまで対等であると直感的に感じている方ならば、私の考え方は理解していただけるだろう。

 私のことを薄情だ、非人間的だ、という方々の中には「障害者の克服と私達の受験勉強とでは価値が違う」と言いたい人もいるだろう。

 では、その価値とはなんなのだろうか? 障害を克服すれば偉いのか? 受験勉強は所詮、それに劣っているのか?

 私は上で述べたようにそうは考えない。努力に貴賎はなく、その努力の結果を本人がどう受け止めるかでのみ価値が決まる。努力そのものではなく、何というか、その努力を果たした本人の認識によって決まるべきなのだ。

 

 ところで、NHKがバリバラという番組で、感動ポルノを扱った番組を放送したらしい。それについて調べてみるのも、良いかもしれない。

ポピュリストの時代

 民主主義とは良い制度だ。私は少なくともそれだけは認めている。国民のため、国民が指揮をとり、国民の意思が反映される。素晴らしい制度だ。ただひとつ、国民が一枚岩でない事を除いては。

 民主主義、と言うのが近年、よく議論されている。特にエリート知識人やリベラル層の間で。

 彼らがどのような議論をしているかは、彼ら曰く「ブルーカラー層」である私には測りかねるが(私はまだ高校生で、工場勤務の経験はない)、少なくとも彼らがどこか狂気にある事は確信している。

 彼らの議論がどのような結論を得たかは知らぬが、その過程で出てくるキーワードについては理解しているつもりだ。「人権」「平和主義」の二つのキーワードだ。安保法あたりから、彼らは民主主義の議論をこの二つから進めているように思う)。

 民主主義というものを想定読者(リベラル層)とともに考察して行くためには、私自身もこの二つのキーワードから民主主義にアプローチして行くべきだろう。ついでに火種となった、安倍政権からもアプローチをしてみようと思う。

 まず、彼がこの議論を活発化させた最大の要因は、現政権である安倍政権の行動である。曰くに、非民主主義であり、平和主義の冒涜であり、個人的人権を軽視しているそうだ。

 ちなみに、想定読者以外の方々に解説すると、安倍政権が非民主主義的であると非難される最大の理由は、国民の過半数が反対していた(らしい)安保関連法の強行採決である。

 ここまで書いて私は、現政権と民主主義の2点からアプローチすることを決意し、平和主義や人権というアプローチは一旦置いておこうと思う。考えてみれば、それら二つは民主主義の側面でしかないのだ。民主主義の本質は、国民と為政者の関係にある。

さて、 安倍政権が非民主主義的ではない、と言う主張はもっとも危険な主張であると私は考える。これは安倍政権が正義の政権であるから、と言う理由ではなくもっと本質的な問題からだ。民主主義ってなんだ? のアンサーだ。

 少なくとも日本の民主主義によって選ばれるのは、政策でも、傀儡でもなく為政者である。為政者、と言うのは常に国民の利益を求める存在であって、国民にこうべを垂れ、国民の指示に従う存在ではない。マニュフェスト(政策)というのは、あくまで為政者のカラーを示すための印でしかない。

 何が言いたいかというと、少なくとも安倍政権は民主主義的に選ばれた為政者であり、その時点で民主主義的な存在であるということだ。

 ここで私の想定読者は反論したくなっただろう。

「選挙で選ばれれば何をしても良いというわけではない。そんなのナチスのやり方だ」とね。

 残念だが、こうした反論を抱いた時点で、私の想定読者はリベラルからポピュリストに格下げせざるえない。

 為政者側の判断と、国民の判断が対立することは当然ある。特に税制を例に挙げるとわかりやすいだろう。有権者にこうべを垂れるだけの為政者は、税を取らず、社会保障を充実させ、国庫を空にするかもしれない。しかし、その行為は正しくない。

 民主主義はポピュリストを生み出すことに長けているし、表面的に見れば「大衆にこうべを垂れる」ことが「民主主義的」に思えるかもしれない。

 しかし、民主主義とは為政者の暴走を抑えるための保険でしかないことを忘れてはならない。王権神授説を根拠に圧政を敷いたり、革命を根拠に敵対勢力をギロチン送りにすることがないようにするための保険でしかないのだ。

 つまり、国民が反対することを押し切ることは、決して非民主主義的であるわけではないのだ。為政者が誤りであれば、国民は民主主義の保険を利用して為政者を排除すれば良い。それすら無視して為政者の椅子に座り続けたならば、ようやく「非民主主義的」と言えるだろう。

 しかし、ヒトラー政権の誕生から学べるように民主主義的だからといって正しいとは限らない。

 だからこそ、私は民主主義を信仰するなと警告するのだ。「民主主義的に選ばれた為政者」というのは、正義を約束するお墨付ではない。私たちは常に為政者の行動と国家の全体を分析し、合理的な判断のもとで投票しなくてはならない。

 そして、ここでこそ私が一番上で述べた「国民が一枚岩ではない」という弱点が現れてくる。だが、その説明をする前に少し、私とイメージを共有してほしい。

 民主主義を為政者の首を乗せたギロチンだと思ってほしいのだ。為政者は民主主義の決定に基づいて処刑、あるいは解放される。

 このイメージを共有できたら、「国民が一枚岩ではない」という弱点が分かりやすくなるだろう。

 国民が一枚岩であれば、全体を俯瞰した判断を下せる為政者を選択できる。もし、その為政者が自らの立場を悪くする存在であっても。

 しかし、国民は一枚岩ではない。自分に都合の良い為政者を望む。マニュフェストはもはや、自らの冷静さと判断能力をアピールするものではなく、自分に投票するであろう人間へのセールスに使われている。つまり、為政者は一部のために全部を動かす存在になったのだ。本来は全部のために一部を動かす存在であるにも関わらず。つまり、ポピュリストの時代ということだ。

 そして、ポピュリストの時代とは、表面的な民主主義の時代と同義である事は、このブログを読んでくれた方々なら理解できるだろう。

 民主主義はこれからも表面的になってゆき、形骸化して行く。そしてその究極的な形がヒトラーであることを私たちは忘れてはならない。

エリート知識人が支持されない理由

 民主主義の中には必ず、エリート知識人が必要とされる。と、いうより、民主主義の繁栄にはその存在が不可欠なのだ。

 しかし、今日の日本ではエリート知識人は全く支持されていない。知識人達がこぞって支持をする共産党、民進を中心とする野党は連戦連敗。勝利するのは常に彼らの敵である安倍晋三自民党だった。弁護士、教育者、芸術家、学者……あらゆる種類のエリート知識人が反安倍を掲げたのにだ(無論、例外的な知識人もいる)。

 では、なぜエリート知識人は連戦連敗なのか?

 思い返せば、エリート知識人が勝っている光景を歴史の教科書でも見た事がない(私は2000年生まれ)。

 彼らはその敗因として、日本人がバカで、間抜けで、民主主義の偉大さがわからぬからと度々言う。私たちの主張に耳を傾け、理解すれば間違えなく私たちを支持してくれる、と言う。

 これは先の参院選でも同じだった。野党連合は「市民VS圧政者」という構図を必死に固めようとした事に象徴されている。「市民」であれば、絶対正義の私達について来てくれる、反対するもの達は愚かだ、と言う主張の象徴である。

 思うに、この姿勢こそがエリート知識人が支持されない最大の所以であるとおもう。彼らの主張の是非は、関係ないのである。

 「私達が正しくて、あなた達は騙されている」だの、「お前らはバカだ」などと言われて耳を貸すものがいるだろうか? エリート知識人は対話を訴えながら、対話のやり方を忘れているように思う。対話とは互いが対等であることを確信した上で行われるものだ。決して一方通行ではなく、独善的なものでもない。共存共栄の為のものだ。

 私は彼らが主張する「対話の世界」が一体どんなものになるのか興味がある。もしかしたら、帝国主義的対話が展開されるのかもしれない。

 しかし、私は確実にそんな世界を見る事はできない。彼らが帝国主義的対話を掲げる限り、彼らが国民の支持を得る事はないのだから。